尊者の教えの中には仏 神 儒 を端的にあらわした美しい言の葉があります
日々の参考にされてみてはいかがでしょう
| 大人の大人たるところは,意気揚々のところにはなくて, 志性温良にあるじゃ。 其楽,放逸歓楽の処にはなくて,謹慎篤実の処にあるじゃ。 |
慈心によりて残忍刻薄の病を療ずれば,良薬の如し。 |
| 慈悲心を修習する人は初に父母の恩を知るべし。 次に人趣の尊きを憶念し,漸次に一切衆生に及ぼすといへり。 |
| 行住坐臥 著衣喫飯まで 悉く 法有ることを知るべきじゃ。 |
| 条理の乱れぬことを知れば道を守りて疑わぬ |
| 宗旨の分かれたは後のこと,正法の世に宗旨はなし |
| 家焼,劫盗(ごうとう)しても仏さへ信ずれば仏の本願力で助かるという。 これは言い過ぎた言じゃ。さう心得ては悪い。 悪は法爾として法性に違背するもの。 善は法爾として法性に随順するものじゃ。 それを悪をなしても仏の力で助かるというならば因果を撥無する悪邪見の類じゃ |
| 一切の法はみな我心よりつくりなすものなり。 善を思えば善人となりて。世界国土みな安楽のうつわとなる。 悪にしたがへば悪人となりて世界国土皆苦悩の境となる。 地獄も畜生も我心の内の苦なり。 仏も菩薩も我心の内のよそほひなり。 |
| 身は他の奴僕となるは可なり。 心他に役使せらる。あさましき事なり。 喜怒汝を奔走せしむ。もし人自ら昧さざれば到るところ主となる |
| 色心の二法は空中の雲の如く水中の月の如くなることを合点して。諸仏と自己と一切衆生と。 本来平等にして別異なきことを徹底信じて。此に於いて自己の身心を棄捨して正法を欣求し。 自己の身心を棄捨して一切衆生を救度する行願を発起し。 一切衆生を見ること自己と全く等しくして自なく他なく我々所を離れ 高下あることを見ず。内外あることを見ず。 |
| 仏とはよそにはあらじふしおがむ心のうちのまことなりけり-和歌 |
| 不瞋恚とは,人間の心もとより柔和なるものなり。 人を憐れむものなり。 この道に背きていかりふみづく嫉妬するを瞋恚といふ。 慈悲忍辱にて道に順ずるを不瞋恚といふなり |
正法とは経律論を多く記したを云うではない。
神道あるを云うではない。光明を放つを云うでない。
むけ弁舌を云うでない。向上なるを云うでない。
唯仏のおこなはれた通りに行いね仏の思惟あらせられたとおりに思惟するを云う。
仏の思惟しおこなはれた通りとは。近くは八正(聖)道じゃ。
1.28
天地の天地たるところ,大人(たいじん)の大人たるところは
生きとし生けるものに悉く其の所を得せしむにある。
万物を各々成育して止まぬところにある。 2.25
第一 不殺生戒 これは仁慈のこころをもって。
いきとしいけるものを。いつくしみ すくふなり。
総じて聖王は万民を 赤子のごとくおぼしめさせたもうて
其の恩 禽獣に及ぶことなり。
其の身無病長寿にして 子孫繁栄なる。この戒の徳なり 十善戒相 5.28
法滅とは何を名づけていうぞ。
口には向上を説けども行と相応せぬのが法滅のそうじゃ。
相似とはなにをいうぞ。
口に甚深の法を説けども行と相応せぬのが相似じゃ。9.27
すべからく純粋の醍醐をのむべし 雑水の腐乳をすすることなかれ 9.28
富にいて貧を忘れぬものは富む。生にあって死をおもふものは常に寿也。
法に法我なければ自家屋裏の仏大光明をはなつ。10.14
貪欲の多いものは自身より一切の萬縁萬境が貪欲ならずということはない。
山川をみても我が物にしたいという貪欲がおこり 虚空を見ても貪欲がおこり
仏像を見ても貪欲がおこり,佛教祖録をみても貪欲がおこる。
中略
佛教祖録を見て貪欲をおこすとは
教者なぞが仏教を多く身多く解して名聞をもとめ,甚だしきにいたりては
利養のためにする輩がいる。 11.10
僧は仏の法を伝えて機にしたがって衆生を導くゆえ
看病人のごとくじゃ。12.12
法華経に。父母は子供の主じゃ。父母になると慈悲心加えぬことなし。
此の慈悲心が親になった主じゃ。一家の主となれば一家の父母じゃ。
一国の主としては一国の父母じゃ。萬国の主となれば
萬国の父母じゃ。此の慈悲心萬国におよぴ禽獣も懐くじゃ。1.29
無漏道とは。聖者の道。諸の煩悩の連注流散なき故に。無漏というなり。
たとえば器物の完具にして漏泄なきがごとく。
屋宅の堅固にして雨漏りなきが如く。煩悩の現行なく性浄円明なる義なり。2.1
心想は動物なり。悪ならざれば必ず善と相応す。
真性持戒のもの。一衆生をみるとき。
その身心全くわが慈悲心依住の屋宅なり。百千の衆生を見るとき。
その百千の衆生全くわが慈悲心依住のすがたなり。
一切世界水陸世界みな衆生ならざる処なければ,我慈悲心一切世界に遍満して
一大慈悲心と成る。経にいわく仏心とはこれ大慈悲心これなりと。これなり
人登奈留道随行記 下 不殺生2.15
悪道とは。地獄餓鬼畜生なり。
この三悪道は。殺生無慈悲の者の生をうくるところなり。
もし人慈心ありて殺生せずは。
永くそのうれいなし。但しこれらの徳は諸戒に通ずるなり。
人となる道 第二編 不殺生戒 2.18
試しに看よ エタヒニンに対する時は
必ず下賎する心が生ずるものじゃ。
尊貴の人に対するときは必ず恭敬の心が
おこるものじゃ。殿堂伽藍の崇麗なるところにいたれば
必ず心も清浄の境界におもむくものありじゃ。
究竟せる境界は唯仏より他はない。
衆の斉整なる,賢聖の儀則なり
第一これ父母師僧三宝に孝順
第二,念戒念施念天 日夜に正憶念すべし。
第三 威儀を謙敬にし,常に粛々たるべし。
第四,坐禅誦経の式 法規をしるべし。
第五,世尊みずから寂静なれば,寂静囲ぎょうし,
世尊みずから調伏すれば調伏囲ぎょうの風をまなぶべし。
人々法にあひ 道に携わるというは
甚だ宿福深厚なこと,過去積善の余慶じゃ。
いわんや三帰をうくるは一切諸戒の基本じゃによって
別してのことじゃ。
帝釈尊天汝が家中にあり,
とはよく世間の礼儀を全うして終始孝を つくすことじゃ。
大梵尊天汝が家中にありとは禅定智力をもって
慈悲喜捨の四無量心をよく行ずることじゃ。
なぜ広く一切衆生に慈悲を起こすを孝というならば
戒経にも一切男子は是我父,一切女人は是我母とあれば
いやとも一切衆生において慈悲心がおこり
抜苦与楽の心がおこらねばならぬことじゃ。
これを衆生縁の慈悲という。
夫唯孝呼云々。
まづ善のはじめに何事を為ようというに。
在家出家におしつうじて善根のはじめは孝じゃ。
孟子にてしれ,乳飲み子でも親をしたう。タイセツニするじゃ。
梵網経に肉身を受けた恩のあるを父母といい
道をうけたものを師僧という。
神祇あることを信ずれば
たとひ 小根劣機のものも。人知らぬ心のうちにも。
悪事はおもわれぬ。
まして悪事はなされぬ。
人いうものは習はせによる。
善をならへば善にうつる。この習いが性となり。
この善が我が心身となる。
大集経にいわく 仏諸の仁者につげていう。
殺生をやむれば十種の功徳をうべし。
何等を十とす。 一にもろもろの衆生において
畏れなきことを得。
自他元来不二なり。 我に毒害の心あれば
彼も怨讐のおもひあり。 我がこころ慈悲と相応すれば
他に悪毒なし この不殺生功徳そなわれるものは
世に処しておそれなきこと。
たとえば小児の父母のフトコロに あるがごとし。
熱悩のなかに清涼の風をえる。
飢えて余膳にあう。 渡りに舟にあう。
みなこの趣をたとうべし。
第二に 諸の衆生において 大慈悲心をえる
心想は動物なり。悪ならざれば必ず善と相応す。
一切衆生ことごとく殺さじと決定するとき
この心 慈悲のよそおいとなる。
心地田中に仏種はじめて生気あるなり。
経にいわく
仏心とは大慈悲心これなり とおもうべし。
人となる道 第2編 不殺生
第三に 悪習気を断ず。
習気とは習い性となりて。その気分とどまること。
香器の年を経れども,匂い失せざることし。
一切衆生無量劫来ならい来たりし悪業種。
その習気断じがたきこと。生鉄のさびのごとし。
唯仏戒の力ありて。諸悪の現行を制伏するのみならず。
その習気をも断ずるなり。
平等ということを,山を崩し谷を填みて
,一様にすることのようにおもふは
愚痴のいたりじゃ。窮屈すぎたことじゃ。
差別ない平等は平等病にとりつかれたものどもじゃ。
差別ある場にむかって平等なるじゃ。山は高くして平等じゃ。
海は深くして平等じゃ。山を崩して谷に埋むるやうな平等では役に立たぬじゃ。
戒 定 慧 のことを,今の宗旨がたまりものどもは,無用のことのように
いへども 此の三にあらざれば,生死を解脱することはならぬ。
生死解脱は智慧の力じゃ。
戒を持すれば心身清潔になるじゃ。
定は禅定じゃ。禅定にはいればすなわち智慧を生ず
慧はすなわち智慧じゃ。洗浄に入って智慧を磨きだし その力によって
生死解脱するじゃ。しかれば,戒 定 慧は法の要領じゃ。
大抵はこのとおりなるべし。
しかし楽しむものは花を見て楽しみ
うれふる者はうれふ。
古人のうたにも 感時花酒涙恨別鳥驚心 というように
ひとつの境がいに楽しみうれへとわかるるものあるなり。
また同じ月星をみても常のものはなにごとなしなるに
天文博士はそれに吉凶をおねふなり。
此類をおして弥々きょうがいのとおりか
さもなきかを,工夫決定あるべし。 慧琳尼工夫書
仏教には注はいらぬもの
かえって仏の意をくらくするものじゃ。
仏教の心は禅定でなければしれふものじゃ。
正見の眼でみれば 宗旨が分かれたので
仏教はくらやみになるじゃ
金剛般若波羅密経講解